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PRODUCTION NOTES

監督の祖父母の移民体験と、実在の裏社会の男から生まれた物語

 本作の企画には、ロシア系ユダヤ人であるジェームズ・グレイ監督のルーツが深く関わっている。1923年、グレイ監督の祖父母は、ロシアのオストロポルという町からエリス島にたどり着き、入国審査を経てアメリカへ移住した。祖父母は後に、この時の体験をグレイ監督に繰り返し語る。映画に出てくるバナナの食べ方を知らなかったというエピソードも祖母の実体験だ。祖父母の話が忘れられなかったグレイ監督は、1988年に初めてエリス島を訪れる。現在のように再興して博物館になる前だったので、まるで時が止まったかのようだった。書きかけの移民申請書が床に散らばった光景が心に焼き付いたグレイ監督は、エリス島から始まる移民の物語を撮ろうと決意する。
 ニューヨークのロウアー・イーストサイドに暮らしていた移民についてリサーチしたグレイ監督は、売春斡旋をしていたマックス・ホックスティムという人物に興味を抱く。彼からヒントを得て、アメリカに入国できない独身女性を自分のハーレムに連れてくる男の物語を考え出した。こうして、グレイ監督の祖父母の体験と、実在した男から生まれた物語がひとつになり、本作が生まれた。

マリオン・コティヤールのために書かれた“エヴァ”

 企画の段階から、グレイ監督は主役にはマリオン・コティヤールを考えていた。マリオンなら、とても言葉にならない魂の叫びを伝えられると思ったからだ。ギョーム・カネとの食事の場で初めて彼女を紹介されたグレイ監督は、美しくそして素晴らしく表情豊かな彼女に目を奪われたという。
 グレイ監督はマリオンに「あなたのために映画を書いてもいいだろうか」とメールする。「むしろお願いするべきは私の方だわ」と語るマリオンの快諾を得て、主人公のエヴァが誕生した。
 ユダヤ系の移民が多く住むロウアー・イーストサイドで、エヴァを場違いで孤立した存在として描きたかったグレイ監督は、彼女をポーランド人という設定にする。マリオンはパリのポーランド語の本屋で様々な本を読み、ポーランド映画もできるだけ多く観た。何人かのコーチから指導を受け、撮影中も空き時間ができると、セットの中でノートに顔をうずめて勉強した。さらにエヴァの出身地の社会的背景を調べ、キャラクターを掘り下げた。
 グレイ監督は、エヴァの叔母役を演じた女優に、マリオンのポーランド語をどう思うか尋ねた。彼女は、素晴らしいけれど若干ドイツ語訛りがあると指摘する。監督がマリオンに確認すると、彼女は「エヴァはドイツとポーランドの間のシレジア出身だから、わざとやっているの」と答えた。マリオンの完璧主義に感服したグレイ監督は、「彼女なしではこの映画を作ることはできなかった」と断言する。マリオンもまた「ジェームズとは、今までのどの監督よりも深い絆を結ぶことができた」と語っている。

複雑なキャラクターを演じる二人の超個性派俳優

 エヴァを娼婦におとしめるブルーノ役も、脚本を書く前から決まっていた。グレイ監督が続けて4作品に起用しているホアキン・フェニックスだ。グレイ監督はホアキンに対して、「彼は常に私が表現しようとしているものを理解してくれ、演じる役柄の内面をよく伝えてくれる。本当に偉大な俳優だ」と絶大な信頼を寄せている。
 マジシャンのオーランドには、グレイ監督がかねてから大ファンだというジェレミー・レナーが選ばれた。オーランドは、実在のマジシャンで読心術師でもあったテッド・アンネマンをモデルにしている。トラブルメーカーでありながらロマンチックなヒーロー、ずんぐりしていると同時に優雅でもあり、空気のように軽くて自己破壊的な人物、言わば聖なる愚者がイメージされた。そんな複雑なキャラクターをジェレミーなら完璧に演じてくれると考えたのだ。「ジェレミーはカメラの前で非常に楽に演じることができる。とても独創的なんだ」とグレイ監督は絶賛する。

エリス島での撮影が実現、1920年代の島を忠実に再現

 歴史的に見ても真実味のある作品を作るために、エリス島での撮影は必須で、当時の島を忠実に再現することが最重要事項だった。映画の中の偉大なオペラ歌手のカルーソーが慰問ショーで歌うのは、すべて実際にあったことだ。できるだけショーを本物らしくするために、現代のカルーソーと言われるオペラ歌手のジョゼフ・カレジャがカルーソー役を演じた。
 グレイ監督と撮影監督のダリウス・コンジは、照明と画面全体の色彩をどうするか、話し合いを重ねて作りこんだ。コンジは、20世紀初頭のニューヨークを写実的に描いたことで名高いジョージ・ベローズと、同時代のマンハッタンのミュージック・ホールのいかがわしい世界を描いたエベレット・シンの絵画を参考にした。また、建築デザイナーのカルロ・モリーノの写真、ロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』なども、宗教的な雰囲気を出すための手本となった。
 撮影は、ニューヨークのロケ地と、クイーンズ地区のカウフマン・アストリア・スタジオで行われた。エリス島の撮影では、200人以上の撮影クルー、1000人のエキストラ、キャスト、機材を運び入れた。

“新世界への玄関”と呼ばれた移民局としてのエリス島

 アメリカ合衆国ニューヨーク湾にある小島。自由の女神が立つリバティ島の近くにある。1892年から1954年まで移民局があり、千数百万人の移民の入国審査が行われた。現在のアメリカ人の40%にあたる人々の祖先がエリス島から入国したと言われ、日本人の姿もあった。
一等、二等クラスの乗客は埠頭より入国できたが、貧しい三等クラス乗客は全員エリス島に上陸させられた。エリス島に着くと、まず医師による健康チェックが行われ、問題がある場合はここで入院する。次に名前と出生地、職業、アメリカ内での行き先、所持金などが尋ねられ、アメリカで働けるかどうかが審査される。労働に耐えられない病気や犯罪歴があると、強制送還される。連日大混乱で長蛇の列ができ、持ち主の手元に戻らない船荷が山積みだったという。
現在はエリス島移民博物館となり、数多くの観光客が訪れている。
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エヴァの告白